信じた行い
こんにちは(^^)江村鍼灸院の江村です。
セオリープラクティスでは、五感や身体感覚では感じられない感覚を、感じるとる練習をします。
そのためわたしとのプラクティスではできても、ひとり稽古では再現できているのか分からなくなることがあります。
そうなるとどうしても、できているのかを試して確認したくなります。
ですが、この『試す』氣持ちは良くありません。
なぜなら試すということは、信じていないということだからです。
何を信じていないのか?
信じていないのはセオリープラクティスで学ぶ、武道の教えや型の教えです。
武道の教え、型の教えは五感や身体感覚で理解できるものではありません。
理解するには、五感や身体感覚を超越した感覚が必要になります。
この感覚をわたしは、六感的物理感覚や真體感覚と表現しています。
どちらの感覚も、教えを體現できるまでは、感じたり理解したりできません。
できるまで、感覚も理解もないので、はじめは信じるしかありません。
そのためひとり稽古では、信じて行うことが必須です。
信じて行えば上達します。
逆に言えば、信じていないひとは上達しません。
これが試す氣持ちが良くない理由です。
プラクティスでこれまでにやったことができているかを検証したいというひとがいます。
検証するということは、信じた行いではないということです。
尊ぶ心が信じる氣持ちを生む
信じる氣持ちは尊ぶ心から生まれます。
ひとは形のないものでも、存在を感じます。
そしてそれが自分にとって大切であれば、尊重します。
武道の教えや型の教えも、形はありません。
ですが、存在しています。
それは圧倒的で偉大な存在です。
それを感じて学びたいと思うひとには、尊ぶ心が生まれます。
その心が信じる氣持ちに繋がります。
それがさらに信じた行いに繋がります。
武道の教えや型に対し、試す氣持ちを持ってはいけません。
試す氣持ちでは、信じた行いはできません。
試す氣持ちは欲から生まれます。
欲は教えや技術を使い、何かをしたいと思いを強くします。
その思いが強くなるほど、教えの真理は遠ざかります。
できているか確認したいという思いは、誰でも起こります。
ですが、試す氣持ちは欲の心です。
その心は悪鬼、業魔となり必ず禍いとなります。
迷った時は試す氣持ちを捨てて、信じた行いをしてください。
このブログは武道から学んだわたしの哲学を書いています。
何かのお役に立てれば幸いです。
江村拝
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