禅、武道の修行は神(shin)に至るための行い
こんにちは(^^)江村鍼灸院の江村です。
禅は神に至るための行いです。
これは神様になるという意味ではありません。
わたしたちは三宝→精、氣、神(shin)の働きを持っています。
※『三宝』體(からだ)、心、意識と深く繋がり、生命そして生活を左右する働きを持つ
この三宝の精と氣を神(shin)に昇華させる行いが、神に至るための行いです。
ではなぜ神(shin)に昇華させるのか?
それは神(shin)に創造する働きがあるからです。
創造はじん生を豊かにします。
その働きを使うためです。
神様はあらゆるものを創造したとされています。
そういう力が、神(shin)の働きにはあります。
とは言っても、突然、魔法のように何かを出すということではありません。
宇宙や地球の法則に則って、意を実像にするということです。
精や氣にも創造の働きはありますが、神(shin)の方が圧倒的に強い働きを持っています。
そのため、禅は精と氣を神(shin)に昇華するための行いです。
心地良さは持っても氣持ち良くなってはいけない
禅を行うには、注意することがあります。
それは氣持ち良くなってはいけないということです。
禅はリラックスして行います。
リラックスすると心地良さを感じます。
そして心地良さを持って、しばらく禅を組んでいると、氣持ち良くなってくることがあります。
ここでの氣持ち良さは、三宝の氣によって感じる氣持ち良さのことです。
氣の働きには、心と體(からだ)を高揚させる働きがあります。
それは氣の空想による働きです。
神(shin)には創造の働きがあり、氣には空想の働きがあります。
その空想の働きが高揚感を生み出し、氣持ちを良くします。
空想は横文字にするとファンタジーです。
ファンタジー作品を見たことはありませんか?
あるなら、ファンタジーで氣分が高揚した経験があるのではないでしょうか?
ファンタジー、空想はひとを高揚させます。
ですが、空想は現実ではありません。
非現実です。
空想の働きをどこまで高めても、実像にはなりません。
ですので、空想を現実にするため、氣を神(shin)に昇華し、創造の働きに変えます。
ですが、氣を昇華する行いを間違うと、氣を高める行いになります。
氣を高めると聞くと、良いことのように思えますが、実はそうでもありません。
なぜなら氣が高まると、空想の働きも高まります。
繰り返しになりますが、空想は高揚感を生み出し、氣持ちを良くします。
ですが、それは虚像が強く描かれるだけで、どこまでいっても幻です。
寝てる間に見る夢と変わりません。
良い夢を見すぎると、現実を見失うことがあります。
つまり、禅を組んで氣持ち良くなるのは、神に至る行いとして、間違っているということです。
これが氣持ち良くなってはいけない理由です。
心地良いと氣持ち良いは似ています。
そのため境目が分かりにくいです。
しかし、確実に見極めなければいけません。
禅には魔鏡に落ちるという表現があります。
魔鏡の誘い
神(shin)の創造、クリエイションとは違い、氣はあくまで空想、ファンタジーです。
氣の高まりは幻による高揚を強くします。
そして氣による高揚は、意識が内面に向かいます。
それは神(shin)で向かう方向とは反対です。
氣の高揚による内面へのダイブは、とても氣持ちが良いので、その感覚に魅入られてしまいます。
ひとは魅入られると、本来の意志を忘れた行いをしてしまいます。
つまり氣の高揚は、意志を薄れさせます。
そしてそれに魅入られると、魔鏡への誘いがはじまります。
現実が澱んで見える経験
わたしは、三年ほど立禅を行なっていたことがあります。
五分程度立つことからはじめ、最終的には四十分から五十分ほど行っていました。
リラックスを心掛けて、心地良さを感じながら行いますが、二十分も経つと辛くなってきます。
最初の頃は辛くなったらやめていました。
ですがある時、辛くなりそうなタイミングで目の前がチカチカ光り、氣持ち良さを感じる體験をしました。
その時は一時間を越えて、立っていたと思います。
とても氣持ちの良い體験でした。
振り返ってみると、その體験から少しずつ、立禅の目的が変わっていました。
あの氣持ち良さ、高揚感をどうすればまた體験できるのか?
それを探る行いへと変化していきました。
それから試行錯誤を重ね、禅を組むと、その状態に入れることが増えていきました。
はじめはそれが良いことだと思っていました。
ですが、次第におかしいと感じるようになります。
きっかけは自分の感情です。
日常的に負の感情を感じることがとても多くなったからです。
道で他人の行いがやたらと目につき、ちよっとしたことに禮節がないと強く感じるようになり、怒りの感情、許せないという思いが止まりませんでした。
それは日に日に強くなって、末期には強い殺意の塊りが心に渦巻いていました。
そんな心を清めようと立禅を行い、さらに悪循環を繰り返しました。
経緯は省きますが、寸前のところで、それが魔鏡への誘いだと氣づきました。
そのお陰で、それ以上は深みにはまらずすみました。
眩い光の中、なんとも言えない氣持ち良さを體験した後は、世の中が澱んで感じられます。
ひとの世に疑問を抱き、それを良くない力でねじ曲げたいと思ってしまいます。
もう少し遅ければわたしは魔鏡に落ち、鬼になっていたはずです。
鬼とはひとならざるもの、ひとの行いができない、禮を持たないものです。
そういうものになっていたでしょう。
精と氣を昇華する行いは全て禅です。
武道の修行も、精と氣を昇華し、神(shin)に至る行いです。
しかし武道も同じで、間違うと魔鏡に入ることがあります。
魔鏡に入りはじめると、自分は強い、自分こそ正しい、自分に逆らう者を粛清してやろうという思いが強くなります。
その結果、必要のない他者への威圧、威嚇、攻撃をするようになります。
武道を修行しているそういうひとは、鬼になりはじめているか、すでに鬼と化しているので、関わらないようにしてください。
武道の修行も神(shin)に至る行いであれば、そのような思いは湧いてきません。
ひとによっては、武道を修行していることすら悟らせません。
感情に囚われない、虚像に魅入られない、神(shin)で至る心
創造は事実です。
結果が存在します。
空想は虚像で感情が介入します。
仮に良い感情が高まっても、その裏側には同じだけの悪い感情が潜みます。
フィクションでもよく、愛情が悲しみ、または憎悪に変化するものがあります。
あれは氣の高まり→空想の働き→感情の高まりの典型的な例です。
感情はいつでも裏返ります。
そんな感情に囚われないことです。
感情に囚われないためには、虚像に魅入られない心が必要です。
わたしたちは現実を生きています。
その現実を豊かにするのは、空想ではなく創造です。
禅は空想を創造に昇華する行いです。
それは、じん生を創造し豊かにする行いです。
そして、それが神に至る行いです。
このブログは武道から学んだわたしの哲学を書いています。
何かのお役に立てれば幸いです。
江村拝
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