空(ku)の教室

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ひょっこりと拳聖になろう!

拳聖=奥義を極めたひと=0になったひと

 

こんにちは(^^)江村鍼灸院の江村です。

 

武道は生を先に繋げる教えです。

 

その教えは安全と危険を明確にし、最適な行動を可能にします。

 

教えを行いにするのが、術(すべ)である武術です。

 

武術は闘争、殺し合いの中で発展し、もともとは武器術です。

 

武器術である理由は、素手より武器の方が圧倒的に殺傷力、破壊力が高いからです。

 

殺傷、破壊が前提の技術なので、身に迫る危険は死が前提となります。

 

そのため武道の教えと武術を理解するには、死について知る必要があります。

 

死とは何か?

 

死とは0になることです。

 

死が有る状態は生が無い状態です。

 

無いというのは0だということです。

 

つまり死を知るには0を知ることです。

 

わたしたちは有るか無いかの二極の世界にいます。

 

その世界の中で、有るを強く感じて生きています。

 

有るものが無くなっていれば氣づきますが、はじめから無ければそもそも認識できません。

 

そのため無いより有るを基準に生きています。

 

0を知っていく

 

わたしたちは経験を積む事で成長、上達します。

 

経験はひとつ、ふたつと積み重ねるものです。

 

武術も例外ではなく、経験を積む事で上達します。

 

しかし、どれだけ稽古を重ねても、死は経験できません。

 

死は積み重ねるものでは無いからです。

 

死にかけた事、臨死體験をした事のあるひとはいますが、生きているひとで死を経験したひとはいません。

 

ですので、生きているひとから死んだ経験を聞くことはできません。

 

わたしたちは死を體験しても、経験したとは言えず、死の経験を共有することはできないのです。

 

わたしたちは経験したことがない事に不安を感じます。

 

それは期待によるワクワク感かもしれないし、恐怖によるハラハラ感かもしれません。

 

死は一度しか體験できず、さらに感覚を共有することもできないので、わたしたちは死に対して不安、恐怖を強く感じます。

 

死を知らないと恐怖に支配され、いくら稽古を積んでもただの行き当たりばったりになってしまいます。

 

死を感じる

 

行き当たりばったりにならないためには、死を知り恐怖を越えることです。

 

死は経験できませんが、察知することはできます。

 

経験の積み重ねは脳や體に蓄積され、同じ、または似ているに反応します。

 

経験の無いことにはその反応が無いため、別のものが反応します。

 

それは心の働きです。

 

心が反応して察知します。

 

わたしたちは死を脳や體で感じるのではなく、心で感じています。

 

ではどんな場合に心は死を感じるのか?

 

それは『限りなく0に近いの状態』を感じた瞬間です。

 

まず「死んでいる」は0の状態です。

 

次に「生きている」は0.0…1だとしても絶対に0以上です。

 

死の淵にいても生きていれば0ではありません。

 

生と死は0以上か0なのです。

 

そして生きているから、死んでいるに変わる境目の瞬間も限りなく0です。

 

なぜなら生と死は刹那的に切り替わるからです。

 

そのため生死の境目は限りなく0に近い状態であり、それを感じた瞬間が、死を感じた瞬間です。

 

武術の稽古には限りなく0に近い状態を感じる方法が存在します。

 

空手ではそれが分解組手の中に存在しています。

 

お互いに決まった動作の中で、生死の境目を體感することができます。

 

わたしたちは脳や體で感じる以外のことは、心で感じています。

 

死、無、0を感じる、限りなく0に近い状態を感じるのは心です。

 

心という表現に曖昧さを感じるひとはいるでしょう。

 

ですので、まずは心を明確なものにしなければいけません。

 

そして心は明確なものであり、武道の教えは心を明確なものにしてくれます。

 

空手の型は何のためにあるのか?

 

それは心を明確にするためのものです。

 

型そして分解組手は、心とは何か?も教えてくれます。

 

そして心を通し、死、無、0を教えてくれます。

 

それらの教えはわたしたちに0の視点を持たせ、刹那の見極めを可能にしてくれます。

 

奥義を極めたひと

 

武道には奥義というものがあります。

 

そして奥義とは0になることです。

 

奥義を極めるには0に近づくことです。

 

積み重ねでは0に近づくことはできません。

 

0に近づくには、手放すことです。

 

手放すことは失うことではありません。

 

有るもの、無いものを解放するということです。

 

拳聖、奥義を極めたひととは、手放して0になったひとのことです。

 

空手の型、分解組手は手放すことを教えています。

 

そのことが分かれば拳聖は修行年数に関係なく、ひょっこりと現れます。

 

型、分解組手から手放すことを学んでください。

 

そして、ひょっこりと拳聖になりましょう!

 

このブログは武道から学んだわたしの哲学を書いています。

 

何かのお役に立てれば幸いです。

 

江村拝

 

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